春からの拠点が決まった。
昨日、ついに春からの栃木側の家が決まった。
戸建・庭&畑つきの場所を紹介してもらえた。
ちょうどつい最近まで暮らしていた方が引っ越しされて、空き家になっていた場所。見た目は古そうだが、内装はリフォーム済み・窓の断熱もしてあって至れり尽くせりだった。
大家さんとしては、空き家になってると痛むから住んでくれてありがたい、とのこと。家賃交渉した上で、即決めさせていただいた。
山に囲まれた、静かな場所。
一方で駅や街中、会社へのアクセスのとても良い、栃木デビューの自分にとっては最高の場所っぽい。
入居は1ヶ月後。
大学の同期で他大に進学する友達から大量の家具家電を譲ってもらえることになり、前の住民の方がいらなくなった家具も必要なら使って良いよ、とのことで、新規購入はほぼなく新生活をスタートできそう。本当にありがたい。
最近(というか栃木に行くのを決めてから)、スムーズに物事が進むことがとても多い。流れに乗ってる感というか。そして奇跡的な偶然もすごく多いんだよな。。。
周りの方達への感謝を忘れずに、日々暮らしていきたい。
ブログを書くことの弊害
※これはメモです
ブログを書きながらいつも思うことがある。
ブログを書く時、どうしても人に見られることを気にして、
書く内容を出し絞ったり、
言葉を丁寧に選んだり推敲しすぎて時間がかかってしまう。
言い換えると、次の二つの問題に整理される。
①ブログを書く際に削ぎ落とされてしまう情報がある
②ブログを書くのに時間がかかりすぎる
それぞれについて書いてみる。
①ブログを書く際に削ぎ落とされてしまう情報がある
ほんと最近よく思うけど、
何か自分の考えたことやその時々で浮かんだ感情や想いを冷凍保存的に残しておくことはできないのかな〜。
ブログを書く時に、人目を気にしたりすることで削ぎ落とされてしまう情報があることもそうだけど、
他にも情報が損失される瞬間はあると思う。
例えば言語化。
その時々に浮かんだ想いやアイデアを、言葉で残すために言語化すると、
そのときに削ぎ落とされてしまう情報がある。(当たり前だが)
それを補完するために、
イラストに残したり、録音したり、になるのかもしれないが、
それらにも限界はある。
言葉だとなかなか伝わらないのでメモ書きを載せておく。
(わけのわからん図で恐縮である)
においとか、まだ身近にあるものでは記録できないしな。
味覚も、触覚も。
別に、全ての情報を記録したいわけではないし、
一瞬一瞬、その時々しか感じられないからこそ、ありがたみがあるものもあるかもしれないけれど。
しかしそれでもやっぱり、
「うわーこの想いそのまま瞬間冷凍してとっておけないかな!!」
っていう瞬間も多い。
(偉大なるMr.Childrenの櫻井さんは、"真空パック"という言葉を用いてこれに近いことを歌詞にしていた)
②ブログを書くのに時間がかかりすぎる
文章の推敲を繰り返していると、
気づけばたくさん時間が経っていることが多い。
(だからなかなか続かなかったりブログ書くのが負荷になる)
なんでなのかなーって考えてみると、
人目を気にして情報を選んだりするから時間がかかる、ってのに加えて、
自分のその時の想いを正確に表現できる言葉を探そうとしてしまうから、時間がかかってしまってるのかもな、と思った。
人目云々の話は、身近な人の見てるFacebookやTwitterの投稿でもないし、
このブログではそんなに気になっていないが、
やはり後者が僕にとってはよくあること。
テキトーな言葉でざっくり書いちゃえばいいものを、
自分の想いを正確に表現する言葉を探すのに躍起になる。
だから、時間もかかる。
(これが、悪いことだとは思ってない。)
これもイラストにするとこんな感じ。
特に、自分の場合は、
手紙を書いたり、メッセージやメールをするときにこのモードに突入することが多い。
そして、このモードは、やりたくてやってるんだけど、
結構頭が疲れるんだよね。
(もしかして、睡眠時間が長くないともたないのは、日中こういうことをやりまくって頭を余計に使ってしまっているから?!)
ーーー
とまあ、ブログを書く時をはじめこんなモヤモヤがよくあります。
書いたら若干整理されたな。
いつもと違った感じの、なんちゃって思想家な記事でしたー。
素材の旅 石の町、大谷へ。
今日は大好きな素材のひとつ、大谷石のルーツを見てみようと栃木県の大谷へ行ってきました。
それがもう。。。すごいんですよ。
こんなに息を飲むようなところがこんな身近にあっただなんてと思いました。宇都宮と鹿沼から車ですぐ近くですよ。
海外バックパッカーしてる時に行ったいくつかの世界遺産を上回る感動。
そんなすげー場所は、
「大谷寺」
そしてその中に安置されている
「大谷観音」
も圧巻なのですが、写真撮影NG。
これを一番最初にみたときに、すぐに連想したものがありました。
@トルコ・カッパドキア
@ギリシャ・メテオラ
ほんとに、直感レベルでの話ですが、
この2つと大谷寺がめっちゃ似てんなーと思いました。
奇岩 × 宗教施設
ってだけなんですけどね。笑
大谷石 × 大谷寺(大谷観音)
・寺の本堂が奇岩の洞窟に突っ込んで立地してる。
・境内から入れる洞窟の中にお地蔵さんがあって、礼拝する場所がある。
カッパドキアの奇岩 × 洞窟の教会
・奇岩の洞窟の中に教会がある
・昔のギリシャ人がトルコ人からの迫害を逃れるために洞窟内に逃げ込み、そこで隠れるように暮らしたり、教会をつくったりしてた。
メテオラの奇岩 × 修道院
・奇岩の断崖絶壁の上に修道院がある
・戦争してた時に、修道僧がここに隠れていた(?)
・今でも、この修道院に籠って修行している修道僧もいる、らしい
ーー
人間は、こういう不思議な地形を目にすると、
その場所に特別な意味を見出すのかもしれないですね。
宗教も違うし、たまたまなのかもしれませんが、
気づくとこういうことばっか考えちゃうんですよね。笑
遠くでなくても、長くなくても、旅は味わえる。
今日、ふと思ったこと。
「遠くでなくても、長くなくても、旅は味わえる。」
旅的に生きることは、実は日常の中でもできるのかもしれない、ということを今日の出来事から感じた。
自分が旅の帰り際に、いい旅だったな〜と思うのってどんなときなんだろう、ということを最近よく考えていた。
よかったな〜と余韻に残る旅って、僕の場合はざっくり言うと、
「共感する(自分と気があう・自分が気に入る)ような、
新たな人・場所・モノ・コト・価値観との出会いが多い時」
かもしれない。
(こんな簡単にまとまるはずはなく、他にもいろいろあると思うが)
そういう瞬間が、日常の中にも実は隠れてるんだと思う。
ーーー
今日は散歩をした。
昼過ぎに事務所バイトを終え、根津神社に古いお守りを返却に行った。
同時に、先日買ったカメラの手慣らしもしようという感じで。
路地裏の植物たちを撮影しながら根津神社へ。
参拝してお守りを返却。
ひるねこbooksさんにずっと行きたかったので、訪問。
前来た時はトークイベントのときだったので、通常営業は初めて。
いろいろ本を物色していたら、またまた自分の好きなフィールドの本によく出会う。
そして店内では、偶然にもインテリアデザイナーのような方が打ち合わせでいらしてた。
なんだかとても気になったので話しかけたら、インテリアデザインのことをいろいろ教えてくださった。
ひるねこの店主さんとも久しぶりにお話しして、店をあとにする。
湯島天神に、大学受験合格のときのお礼参りで買ったお守りを返却に行こうと湯島を目指す。
すると、なんだかとても惹かれるお店があった。
中を覗くと雑貨屋さん。
優しそうな女性の店員さんがいらっしゃった。
店内を見せてもらっていると、
木のスプーンや食器がたくさんあった。
最近、木製品などの自然素材を使ったものを生活に取り入れたいと思っていた。その中でも特に、スプーンとか小さなモノから始めたいなと思ってた。
すると、女性が木のスプーンについていろいろ話してくださった。
製品の素材や作られるまでのストーリーを教えてもらった。
素材と作られるまでのストーリー。
これは僕がこれから仕事をする時に、どうにか大切にできないかと考えていたこと。
その女性はお店で、作り手のストーリーをいかに伝えることができるか、ということに挑戦されていた。
なんでだろうね、こんなに家の近所で、ここまで共感する人に出会えるとは。しかもここは高校時代の通学路だよ。当時は、そのお店に意識が向いたことなんてほとんどなかったのに。
そして、その木のスプーンもただものではなかった。
サオという南国の木を使っていて、硬い。きめ細やかな木目、そしていかにもスプーンとしての機能を最適に果たしてくれそうなフォルム。
何回ものプロトタイピングの末に、この形に行き着いたらしい。
そんなこんなで話が盛り上がっていると、
奥の方でなにやらワンちゃんがそわそわしはじめた。
僕の方に連れて来てくれた。
ワンちゃんが、めちゃくちゃ興奮して喜んでるように見えた(それはもう我を見失うくらいに。笑)
ヒッチハイクの時といい、最近、動物とすぐに仲良くなれる。
お客さんの出入りも多かったので、この辺でお店を後にして、帰路についた。
ーーー
捉え方によっては、ただの日常なのかもしれない。
けれど、
偶然的な人との出会いと交流・魅力を感じる本との出会い・共感する人との出会い・魅力的なモノとの出会い など、これだけたくさんの旅的要素が近所の散歩の中にも隠れてるんだ。
もっと日々を丁寧に、旅的に生きていきたい。
日々の 小さなモノゴトに感動できる人でありたい。
味方が増えると、どんどん加速する。
また、ちょっといいことがあった。
住まいのことだ。
栃木に移住するにあたって、
「自然と共に暮らしたい」
という想いがあった。
できることなら、庭(or好き放題いじれる土地)がすぐに欲しかった。
・自分の口にする食べ物のうちの数%でもいいから、自分で生産したものを取り入れた暮らしをしてみたい。
・起きてすぐに、新鮮な空気を吸ってリフレッシュしたり、そんな中で瞑想する時間を作りたい。
・自分で作れるものは廃材なりなんなりでDIYして作ってしまいたい。
・消費に走りがちな現代の暮らしに対する自分なりの提案をするための実験場所が欲しい
など、理由はさまざま。
そういうことができる拠点となる場を探していた。
けれど、入る予定の会社の人にはそういう話をほとんどしてなかった。
入社する前から自分の考えを言いまくっているのもなんだかな、と思ってそういう話はあまりしなかった。
(本当は話してもいいのだが、どうしても仕事のコミュニティとなると躊躇してしまうチキン野郎)
しかし先日、会社の先輩に住まいのことを正直に話してみた(その方は不動産のスペシャリストだった)。
すると、
「めっちゃいいじゃん。家探し、おれが全力でサポートしちゃるよ!!実はな、昔そうやって都会から栃木の山奥に、木こりになりたいっていう青年に古民家を紹介したことがあるんだ」
「実は、おれもそういうところに住みたいから、ちょっと遠いけど、いま住んでるところから通ってるんだよね。」
とても共感してもらえた。しかも、その道のプロフェッショナルだということが判明した。
ものすごく嬉しかった。もしかしたら、この人なら共感してくれるに違いないっていう直感もあったけど、それは間違いじゃなかったようだ。
その先輩も、ワクワクして、なんだかとても嬉しそうな顔をしていた。
ついでに、市役所の古民家関係をやってる部門の方にも繋いでもらえたり、そういう物件を扱ってる不動産屋さんを紹介してくれた。背中を押してくれた。
一気に物事が動き始めた瞬間だった。
自分の想いに共感してくれる人って、実はとても身近にも隠れているのかもしれない。
組織でみたときには、共感してもらえないかもと思ったとしても、その組織の中の個々人ってなるとまた話は別なんだなと思い知った。
そして、味方が一人増えるとこんなにも自信が増すのか、ということも実感。
自信が増すだけじゃなくて、モノゴトも一気に動き始める。加速する。
話す、発信する、そして共感できる人を見つけるってやっぱり大事だなと思った。
移住先でも少しずつ、共感できる仲間を増やしていきたい。
栃木側の新住まいをどうするか
いよいよ移住まで約2ヶ月となった。
卒論を追い込みつつ、エネルギーと時間の7割くらいは卒業前にやっておきたいことや会いたい人と会う時間に捧げている感じ。
ここ最近ふと、栃木の住まいのことをあんまりしっかり考えてなかったことに気づく。
今の候補としては
1.旧市街エリア・移住者の方や知り合いの地元の方の近くに住まう
2.新市街エリア・知人紹介の格安ボロアパートをリノベしながら住む
の2つが挙がってる。
(実はたまたま近くの集落だったばーちゃんの実家が空き家になってて住めそうだったがNGが出そうな空気と親戚のメンドくさい何かに巻き込まれる予感を直感の段階で感じたのでやめた。畑つき戸建てで理想だったんだけどな…)
1.旧市街エリア・移住者の方や知り合いの地元の方の近くに住まう
メリット
・自分の仲良い人たちのすぐそばに住める
・田舎感あるところでゆったり暮らせる
デメリット
・ちょっと家賃が上がる(東京と比べれば全然安いが)
・アパート
2.新市街エリア・知人紹介の格安ボロアパートをリノベしながら住む
メリット
・家賃がめちゃくちゃ安い(月5000円くらい?)
・店が近いので生活は便利
デメリット
・仲間が住んでる地区から少し遠い。(といってもクルマで5分10分くらいだが)
・典型的地方都市の郊外って感じ。幹線道路が走りロードサイド店が多くて都会っぽい。
→都会っぽいところだとぶっちゃけ何のために移住したん?ってなる。ゆったりした拠点を求めてた。都会的暮らしを求めてこっち来るわけじゃないんだよな。。。
・アパート
いずれにしろ、ゆくゆくは庭付きの場所を借りたい。
今回住む場所は、仮住まい的な色が濃いかも。2段階移住ってやつか。
自分の中の家選びの基準を整理すると、
1.仲間が近いか
・サードプレイス的な場を近くに持っていたい。(リンダグラットン著のWORK SHIFTでいうところの"自己再生のコミュニティ"みたいな。)
・東京の仲間にも会いやすいように東武駅の近くがいい
2.家賃
・初期投資がほぼできないので、可能な限り安いところでスタートしたい
3.自然が近い
・都会の喧騒から離れたいというのも栃木来た理由のひとつ
4.可能なら広い庭
・食料を少しでもいいので自給したい。
(この辺の考えは追々ブログに書こうと思う)
ざっくり挙げるとこんな感じか。
2月の最初に新市街のアパートに泊まりつつ、旧市街の物件を漁りにいこうとしているので、そこでまた考えよう。
ヒッチハイク旅をしてみて感じたこと
X'masにヒッチハイクを初めてやってみて、いろいろと感じたことがあったので一旦整理しておく。
・ヒッチハイクは本当にいろいろな人の優しさを受けまくる。そして、すぐに恩返しができる可能性が低い。それはおろか、同じ人に恩を返せるとは限らない。
恩を受け続けて、どうにか恩返しをしたいと考えたけれど、その人たちに恩返しすることもそうだけど、自分がしてもらったことを他の誰かにしてあげよう、と思うようになった。
もしかしたら、こうやって循環していくものなのかもな〜と思った。
・今生きている瞬間は偶然の積み重ね、掛け合わせでできているのだ、と思った。
何台もスルーされた結果1台目の方に出会い、乗せてもらって、そのおかげで2台目の方に出会い、乗せてもらって、そのおかげで3台目の方に出会い、乗せてもらう。
もし、1台目の人に乗せてもらっていなかったら、2台目、3台目の人には出会えていない。
これって、人生も同じかもしれない、と感じた。(20年ちょいしか生きてないけど)
誰かに出会ったおかげで、また別の誰かに出会い、自分が感化され、その人に紹介してもらったコミュニティでまた多くの人に出会い、何かのプロジェクトに一緒に関わる、みたいな。
自分の大学生活も、二地域居住をしようという選択に至ったのも、全く同じ偶然の掛け合わせだな、と思った。
ものすごい確率の選択肢の掛け合わせをしていくプロセスを、ここまで肌で実感しながら体験できることって、なかなかない気がする。
・そして、そうやって思うことって、生きていく中の一つ一つの瞬間を楽しむことにもつながるのでは。
ヒッチハイクをして、出会う人々と一緒に過ごすその瞬間を自然と楽しんでいたけど、この感覚が、自分の普段の日常でももっとできると良いのかもなあ。
なんか、受験やらなんやで目的達成型思考が刷り込まれていて、ついうっかりしていると目的達成のことばかり考えて、その過程にあるものを味わわなくなってしまうことがある。そして、それがなんだかもったいないなと感じていた。
・さらには、出会う人々との楽しい時間を、”またいつか”実現することはできないかもしれないということ。何人かの方は連絡先を交換したりメールをしたりして今後もやりとりが続いていくと思うが、連絡先はおろか名前さえも聞いていない人もいる。
だからこそ、少し大げさかもしれないけれど、その瞬間瞬間をかみ締め、味わいながら過ごす、というスタンスだけは譲れないな。と改めて思った。
思いつくだけ挙げてみた。まだまだ出てきそう。思いついたらまた書き足そう。